こんばんは。 どうも俺です。
貴方はジブリ作【千と千尋の神隠し】をご存じですか?
今回は少し古い映画ジブリ作【千と千尋の神隠し】に迫っていきたいと思います。
制作のきっかけは、宮崎駿の個人的な友人である10歳の少女を喜ばせたいというものだった。この少女は日本テレビ放送網の映画プロデューサー、奥田誠治の娘であり、主人公・千尋のモデルになった。企画当時宮崎は、信州に持っている山小屋にジブリ関係者たちの娘を集め、年に一度合宿を開いていた。宮崎はまだ10歳前後の年齢の女子に向けた映画を作ったことがなく、そのため彼女たちに映画を送り届けたいと思うようになった。
2001年(平成13年)7月20日に日本公開。興行収入は316億8,000万円で、『タイタニック』(1997年)を抜いて当時の日本歴代興行収入第1位を達成し、2020年に『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』が記録を更新するまで、20年近くにわたり首位記録を堅持した。第52回ベルリン国際映画祭では『ブラディ・サンデー』と同時に金熊賞を受賞した。宮崎の友人である映画監督ジョン・ラセターの尽力によって北米で公開され、第75回アカデミー賞ではアカデミー長編アニメ映画賞を受賞した。
2016年のイギリスBBC主催の投票では、世界の177人の批評家が「21世紀の偉大な映画ベスト100」の第4位に選出した。
2016年に行われたスタジオジブリ総選挙で1位に輝き、同年9月10日から19日の10日間、全国5か所の映画館にて再上映された。
2020年6月26日より日本372の劇場で『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』『ゲド戦記』とともに再上映され、週末観客動員数で1位となった
この宮崎駿が手がけたジブリアニメ『千と千尋の神隠し(2001年)』。実写・アニメ問わず、日本映画の歴代興行収入で堂々の1位をマークしていたが、2020年に『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』に追い越される形になってしまいました。
しかしそれでも日本を代表する作品『千と千尋の神隠し』ですが、ストーリーの中には、不思議な描写や様々な謎があります。今回は、『千と千尋の神隠し』のそういった疑問点について、考察していきたいと思います。
千尋の母の冷たい態度
主人公である荻野千尋の母親は冒頭と結びに登場する彼女ですが、千尋に対してやたらと冷たい態度を取っているように思えます。対照的に、千尋が迷い込む世界で支配者として君臨している湯婆婆(CV:夏木マリ)は、息子の坊(CV:神木隆之介)に対し過保護であり、かなり甘やかしている様子。
しかし、甘やかされてばかりで何もできなかったはずの坊はネズミに変えられ、家を飛び出し旅をすることで、最終的に千尋の味方をします。2本足で屹立し、湯婆婆から自立したような状態になるのです。そしてその描写があった直後、千尋は最後の試練を乗り越え、冷たい態度を取っていた母親のもとに帰ることができたのでした。
子育てにおいて、子どもを立派に自立させることはひとつのゴール。一見淡白そうな千尋の母親でしたが、やはり最後には帰るべき場所として設定されており、千尋がそれを見失うことはありません。2人の親の対立構造は、甘やかしてばかりが親の在り方ではないというメッセージになっているようにも感じられます。
カオナシの存在
千尋を気に入り、彼女に何度もアプローチするカオナシ。彼はカオナシという名前の通り、「個性を持たない」存在として表現されているようです。実際、カオナシは千尋に自分のことを尋ねられたとき、かなり困ったような表情をしていました。「自分がない」、「自分の居場所がない」からこそ他者の欲望を煽って自身に取り込み、パーソナリティを得ようとしたのでしょう。
カオナシはしばしば千尋にお金を渡そうとしますが、彼女は断り続けました。この行為からカオナシは「欲望の象徴」なのではないか、という考え方もあります。そして、一連の掛け合いや砂金がやがて泥へと変わってしまったことを考えると、この作品には「お金では買えないものがある」というテーマも存在するのかもしれません。
海原電鉄の黒い乗客
「行き」しかなく、乗客が死者であるかのように黒い影となっている、不気味な海原電鉄。乗客が黒い影で表現されている理由は、作者が宮崎駿であることに注目すれば紐解けそうです。
宮崎駿は宮沢賢治の影響を強く受けていることで有名です。海原電鉄は、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』が背景にあると思われます。死者をあの世へ送るための銀河鉄道に着想を得ているのだとすれば、『千と千尋の神隠し』で舞台となっている八百万の神がいる世界は「あの世」に重ねられているのかもしれません。海原電鉄の乗客が亡くなった人々として黒い影になっているのも頷けるのではないでしょうか。
その説を支持した場合、『千と千尋の神隠し』という物語は”千尋が味わった一時の臨死体験”とも言えそうですね。
なぜ千尋だけが現実世界に帰って来れたのか?
千尋は現実世界に帰れたのに、ハクは帰ることができずにいます。それはなぜなのか。物語の中で明示されてはいませんが、実は彼女が生還できたのにはきちんと理由があります。
千尋は湯婆婆との契約の際、「萩野千尋」の「萩」の字を「获」と書き間違えていました。そのおかげで契約は成立しておらず、千尋は現実世界に帰ってくることができたのです。後にハクからも「湯婆婆に本当の名前を教えてはいけない」と言われた通り、本当の名前でなければあの世界に縛られることはなかったのです。しかし、ハクは湯婆婆との契約をしっかりとしてしまったせいで、現実世界に帰ってくることはありませんでした。
帰りのトンネルでハクが千尋に言った「振り返るな」の意味
作品の終盤、トンネルを出るまでは振り向いてはいけないと、ハクが千尋に対し言いますが、なぜだったのでしょうか。
同じような場面は、世界中の逸話にしばしば登場します。「見るなのタブー」とも言われるこのような描写は、日本の神話やギリシャ神話、旧約聖書にもあり、身近な話としては『鶴の恩返し』などが挙げられます。物語の結びに古来から用いられてきたそんなお約束を踏まえた上で、千尋に「振り向かないで前を見て進め」とエールが送られているのでしょう。
「行き」のトンネルと「帰り」のトンネルが違うのはなぜ?
荻野一家はトンネルをくぐって神々の世界に足を踏み入れましたが、現実世界に帰って来たとき、トンネルは行きとデザインが異なっていました。
これには、「神々の世界には現実世界と別の時間が流れており、現実世界のトンネルが経年劣化した」という解釈もあります。しかし、冒頭に建築関係の仕事をしている千尋の父が、トンネルは「モルタル製」であることに触れていますから、帰りのトンネルが石造りになっていることを考えるとその線は薄いのではないでしょうか。最初から、行きのトンネルには神々の世界に導くための魔法がかかっており、もともと例のトンネルは石造りだったと考えた方が良さそうです。
『千と千尋の神隠し』は風俗をイメージした物語?
千尋は湯婆婆が経営する湯屋にて「湯女」として働きますが、この「湯女」とは江戸時代、入浴の際に入浴者の手伝いをする人で、次第に売春行為もするようになったと言います。
とはいえ、作品の中では風俗のモチーフとして湯女が用いられたわけではありません。宮崎駿は過去にエンタメ雑誌「プレミア」で、「”あれは日本そのものです。(中略)みんな千尋が暮らす湯屋の従業員部屋のような、ああいうものだったんですよ。日本は少し前までああいう感じだったんです。”」と語っており、風俗産業の表出というわけではなく、日本の労働環境のモデル化という面があるようです。
『千と千尋の神隠し』の幻のエンディング
この作品の謎を追いかけていると、よくネットで「幻のエンディングが一部映画館で映された」という都市伝説を見かけます。しかしどの情報も、肝心となるエンディングの内容はストーリー中の様々な場面をつぎはぎにくっつけたような印象を受け、支離滅裂です。
謎めいた展開が魅力であり、国内では他に類を見ないほどの人気作品ですから、「そういえばそんなシーンあったかも」と「幻のエンディング」の存在が本当であるかのように噂が広まってしまったのだと思われます。これに関しては過去にネットメディアがジブリと東宝に取材をしており、言質を得ていますので、やはり「幻のエンディング」は存在しないようです。
最後の豚の集団に両親がいないと気づいた理由
物語の終盤、湯婆婆が千尋に課したテスト。それは豚の集団から、豚になってしまった父母を当てるという難題でした。そこで千尋はその場に父母がいない、と確信を持って湯婆婆に伝えたことで、元の世界へと戻ることを許されます。
なぜ千尋は答えを出せたのか?これについては様々な考察がなされていますが、宮崎監督も明言していません。ただひとつ言えるのは、物語を通して千尋が大きく成長し、ある種の洗脳(魔法)が解けた状態になったということ。宮崎監督も「なぜわかるか、でもわかるのが人生ですよ。それしかないんですよ。」と答えたそう。
映画の中での経験が、千尋にとって人生を生き抜く確実な力になったのです。具体的な考察、説明は野暮なのかもしれませんね。
『いつも何度でも』は映画制作前に作られた
主題歌『いつも何度でも』の優しい歌詞は、本作の不思議な世界観と少女の成長物語に寄り添っているように感じられますが、実はこの曲は映画制作前に完成していました。というのも、前作『もののけ姫』に感銘を受けた木村弓さんが宮崎監督に自らのCDと一緒に手紙を送ったところ、宮崎監督も気に入り、当時企画中だった『煙突描きのリン』が形になったら連絡する、ということで作品概要を木村さんへ伝えます。そこから着想を得て作られたのが「いつも何度でも」なのです。
しかし、ある理由がありボツになってしまった『煙突描きのリン』。曲もお蔵入りしかけましたが、当初『千と千尋の神隠し』の主題歌になる予定だった『あの日の川へ』の作詞が難航し、再度監督が『いつも何度でも』を聴き直したところ、歌詞が映画と合致していることに気が付いたそう。
そして主題歌に起用されたという不思議な繋がりのある曲だったのです。
幻の先品「煙突描きのリン」
先述した『煙突描きのリン』は、1998年6月から企画が進められていました。物語としては、大地震に見舞われた東京を舞台に、銭湯の煙突に絵を描く18歳の学生・リンが、東京を影で支配する集団と対峙し、戦うというもの。
ですがその制作中、鈴木プロデューサーは鑑賞した『踊る大捜査線 THE MOVIE』で感じた「リアルな若者の気持ち」に衝撃を受けます。そして、その気持ちを宮崎監督に伝えます。若者とは言えない自分たちが、本当に若者の気持ちを表現することができるのか疑問に思ったというわけです。結果監督も納得し、この作品が日の目を見る日はありませんでした。
その後、千尋と同年代の子どもたちに向けた『千と千尋の神隠し』を手掛けるのですから、制作側の心境の変化もうかがえます。
最後に
『千と千尋の神隠し』に関する噂や謎、作品に込められたメッセージやテーマについて考察しました。公式の見解が出揃っているわけではないので、一概に言えることではありませんが、これほど考察が深まるのはジブリ作品の特徴であり、醍醐味といえるでしょう。
貴方もこれらを踏まえて、この懐かしい【千と千尋の神隠し】にもう一度触れてみてはどうですか?
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